現場と大学入試改革。これからの時代の教員とは。〜聖学院中学校・高等学校教諭・児浦良裕先生特別インタビュー
〜〜プロフィール〜〜
児浦良裕先生
聖学院中学校・高等学校数学科教諭・入試広報部・21世紀国際教育部。
ベネッセコーポレーションに16年勤めた後教員となり、教科のアクティブ・ラーニング型授業やキャリア教育など生徒が主体的になるための様々な取り組みを行っている。
こんにちは、五月祭教育フォーラム2017運営スタッフの村上です。
本日は五月祭教育フォーラム2017特別企画
「現場と大学入試改革。これからの時代の教員とは。〜聖学院中学校・高等学校現教諭・児浦良裕先生特別インタビュー」の記事をお送りいたします!!
今回、五月祭教育フォーラムの特別企画として取材させていただいたのは、聖学院高校で数学科の教員を勤めておられる児浦良裕先生です。
児浦先生は聖学院中高等学校の教諭に着任される前にベネッセコーポレーションに16年間勤めていたという経歴をお持ちで、授業の中でも企業勤め時代の経験を生かした実践に取り組まれています。
それは、「子ども達がこれからの社会で生きていくために本当に必要な力は何か」という問いに対する明確なビジョンに基づく実践です。
そして、そのビジョンを反映した実践は、数学の授業だけでなく、日々の学校での子どもたちとのありとあらゆる関わりの中で繰り広げられています。
今回の取材では、そのようなまさに21世紀型の教育に取り組まれている児浦先生に、2020年の大学入試や不確実性が増すこれからの時代にあるべき教員の姿について、お話しいただきました!
教育者・児浦良裕
さて、本日は現場で素晴らしい実践を生み出し続けている児浦先生に、大学入試改革で掲げられている理念に、実際の現場が本当に対応していくことができるのか。そういった空気感、児浦先生や他の教員の方々が今回の改革をどのように捉えられているのかといったお話を中心にさせていただければと思います。
ですがその前にまず、児浦先生ご自身の教育への理念や子ども達への想いといったものをお聞きしたいです。
最初にお聞きしたいのは、児浦先生が教員として持っている「子ども達にどのような人間として育っていって欲しいか」というビジョンについてです。
また、そのようなビジョンを日々の授業にどのように反映しているのかということをお話しいただければと思います。
教員という職業は子どもたちの人生を大きく決めてしまう非常に責任の重い立場だと思っています。そういったことを踏まえ、まずこの質問を投げかけさせていただきました。
児浦先生:そうですね。私は、少なからず社会が激変していくこの時代では、当然のことながら子ども達を生き抜いていける人財にしたいと思っています。
社会で生きていくということは「働く」ということです。
「働く」というのには大きく分けて二つの要素があると思っていて、それはすごく乱暴にいえば「稼ぐこと」と「社会に貢献していくこと」です。
私は子ども達にこの二つの力を身につけて欲しいのです。そのために授業を行っています。2045年へ向かう中でどういう形で稼ぐのか、どういう形で貢献していくのかということを生徒達には少しでも具体化して欲しいと考えています。
ただ、「稼ぐこと」というのは仕事をしていくということですので、今の日本の学校教育の風潮とでも言いましょうか、教育事業として展開していることに反して「ビジネスではない。子ども達にビジネスを教えるな。」というような空気感の中ではなかなか僕の得意分野である営業のようなことを教えることもできない。それが出来るとすれば文化祭で模擬店などを経営するケースぐらいでしょうか。
ですので、どちらかといえば後者、すなわち「社会に貢献していくこと」、一人一人が社会にどうコミットしていくかということ、さらに言えば、自分の「賜物」をどう社会に生かしていくかということを考えさせたいと思っています。
――それは科目教育とは切り離して考えていいのですか?
児浦先生:もちろん、科目教育の中でも実現していかなくてはならないと思います。
ただし、最も重要なことは全体としてどうデザインするのかということです。つまり、自分の担当する生徒、これから担当する生徒に社会に出た時にどういう人財になってもらいたいかというビジョンが必要ということです。私は、このビジョンなしには教育など意味がないと思っています。
感覚としてはこのビジョンのために、ツールとして科目教育やそうでない教育があるという位置付けです。
2045年の文脈で言えば、AIの発展やデジタル化・グローバル化の進む中で、
自分はどのようにそれらに対峙していくのかというマインド(それを身につけるための資質・態度)
そのためのスキル
そのためのアウトカム
この3つをどう実現していくかが自分の役割だと思っています。
――このような児浦先生の教育への向き合い方というものは、昨今取りざたされる21世紀型の教育、すなわち2045年に向けて人々がどういった力を身につけていくべきかという問いにとても合致したものであるように感じます。先生の教育観というものは、このような時代の要請に合わせたものなのでしょうか?
児浦先生:いえ、それ以前から私の中にあったものです。というのも、会社(ベネッセコーポレーション)で仕事してた時はビジョンがなければ活動できなかったからです。会社では、常に誰に対してどういう状態を目指して何をするのかという3点セットの問いを立てるようにしていました。今は学校内部に対しても生徒に対しても、あるいは自分に対しても問い続けているというのが現状です。
現場から見た大学入試改革
――ありがとうございます。児浦先生の取り組みはまさに今回の大学入試改革の掲げる「理念」に合致する部分の非常に多いものだとわかりました。
それでは、ここからは大学入試改革についての話題に移っていきたいと思います。
まず、この話をしていく上で現場につきまとう問題として「教員の多忙化」があります。昨今のニュースや、私自身が直接お会いした教員の方々の話でも、授業案作成以外の時間、例えば部活などに1日の多くが割かれていると聞きます。
そのような中で現場の教員の皆さんは改革の理念にのっとった実践の考案に取り組んでいく意欲と実際にそれを実践する余裕があるのでしょうか。また、大学入試改革が盛り上がってきていることにどういった反応を示しているのでしょうか。
児浦先生:なるほど。恐らくですが、今の状態で言えば時間もないし、どんな仕事でも文句をつけようと思えばいくらでもつけられるんですよね。
だけれども、恐らく、圧倒的に足らないのは、ビジョンを持つために教員にとって必要な経験ではないかと思います。それがない中で上から降ってきた制度をやれと言われても自分がビジョンを持っていないから分からないし納得感もない。
例えば英語4技能と言いますけど、なぜ4技能を学ばなくてはならないのか、といったように。大学入試では4技能を問うてないから、やらなくてもいいのではないかという考えの人もいます。確かに最近は4技能を計るところもありますが全てではないですし、2技能で文法などをやっていればよいのではないかという教員もいるのが現状なのです。
それはそこに対する強いビジョンが持てていないからであると私は考えます。グローバル社会がどうなっているかを考えるきっかけがないのです。
だからこそ私は中学生を東南アジアへ連れて行き、あなたたちは恵まれている、あなたたちはこの人たちのストイックさに比べたら「やばいよ」という教育を作りたいのです。
そうなると、やはり、自分がそこでリアリティ持っていなければならないのです。
私自身は一部の層とはいえ、英語を流暢に操る向こうの大学生たちに大きなショックを受け、少なくとも自分はベトナムの留学生には負けていると思いましたし、このままではいけないという強い思いに駆られましたね。
――確かに、私が日常接しているアジア系の留学生たちも意欲・学力ともに日本人の常識から考えると驚かされ、脅威に感じるものがありますね。
児浦先生:そういったビジョンを教員が持っていると持っていないのでは雲泥の差なのですよ。ですからそこを持つ時間がないという人もいますけど、僕はこうして無理矢理作っているのです。本当はビジョン作りが教員にとっていかに大事か。本当は、ビジョンづくりは絶対にしなくてはいけない。僕は、これを大事にしています。
教員にとって最も重要なのはビジョンを持つこと。
では、ビジョンをいかに作っていくのか。
――ここまでのビジョンの話は、言うなれば「教員像」の話かと思います。それでは、そういったビジョン作りを、教員が行う時間がない一番の要因はどこにあるのでしょうか。学校での教員の在り方をある程度規定している行政が良くないのか、あるいは、教員たち自身のマインド、すなわち時間を作り出していこうという姿勢がないことに問題があるのか、それとも昨今で言われる保護者の要求が強くなってきているということに問題があるのか、あるいは総合的な問題なのでしょうか。
そういったビジョンを持つためには具体的にどこを変えていけなければいかないのでしょうか。
児浦先生:総合的に問題があると思いますね。制度の面では、普通の会社では大きくは3つの大きな役割を回すのですが、教員の場合はそれが4つであるということが一つあります。
1.学年主任(担任)
2.教科
3.分掌
4.部活の顧問
大きく分けるとこのような4つになるわけなんですが、どれかが軽いというわけでもなく、特に4つ目、つまり部活が教員にとってはかなり重いので大変ですね。やはりここに教員は多くの時間を割かれてしまうわけです。そんな中で、先日の栃木の雪崩事件がありましたが、責任と罪とが常に隣り合わせに存在しているのです。良いことがあっても何も言われないが、悪いことがあると徹底的にたたかれる。まあ、このようなものに突っ込んで行きたがる人は少ないです。
自分は、会社員時代に良いものも悪いものも評価されてきて、人生の評価としても勝手に自己評価ができていますが、先生たちはそうした客観的な社会的評価を受けておらず、むしろ悪い評価ばかり受けています。そういうことからも、投げやりなマインドになってしまっているというのは少なからずあるかと思います。
もう1つ、担任という点で言うと、保護者からの要求度合いは確実にあがってきています。ただ、それはコミュニケーション術を学べば多少は改善できるものです。しかしコミュニケーションを学ぶ機会がない。要は言いたいことをバシッと言い切ってしまうようなことをしていると相手を怒らせてしまいます。きちんと対話をすれば良いのにとは思いますね。
こうした問題への対応が遅く問題が膨れ上がってしまい、処理に追われ倒れそうになっていく教員たちがいるという現状があるのです。
授業の教育については経験を積めば積むほど上手になっていきます。ただ、それはアップデートしないと意味がありません。しかしアップデートしようとするとかなり大変なのも現状です。
特に教材がなければないほど教材も全部自分で作らなくてはいけません。私は、授業づくりというのは、「一個一個の授業の設計」と「教育のデザイン・授業のデザイン」の2つあると考えていますが、その片方を文部科学省が(学習指導要領という形で)奪ってしまったので、教員の後者の能力が育ちにくくなったのだと考えます。
つまり、教育のデザイン・授業のデザインは、本当は教員がしなくてはならないものなのです。
私たちは一年の中で、期間を区切っておよそこのクールには何をして、何をしてという大まかな授業計画を立て、その中でどういう授業を一回一回やるのかを考えます。
しかし、やはり授業にはストーリーがないと面白くありませんよね。私は一個一個の授業をどう工夫するかというよりも、この授業のストーリーを作ることの方が大事だと思っています。
先ほども述べたように文部科学省がそれを作る力を奪ってしまったのです。学習指導要領という名前で。それは当然面白くないに決まっています。しかし、その学習指導要領を抜かして好きなようにやらせてください、「このような力をつけさせてください」ということだけを決めてやらせたら誰もできないですよね、きっと。だから、授業デザイン力を本気で...新しい授業を一から作らせようとするとこれが結構難しいのです。
――教育の問題に切り込む時は、1つの観点から切り込んでもまたその裏からまた問題が見えてきて、どこから切り込んでも総合的に問題が解決できない...という話になってしまうという体感があります。今の話を聞いていても、担任、教科、分掌、部活の話があったり、学習指導要領の話があったりと、かなりこの状況を一変させるのは難易度が高いのではないかというのが私の体感でした。
先生は現場の教員として、このような状況が実際に変わっていくだろうという体感というか、変わっていけるだろうと率直に思いますか?
児浦先生:どの単位で変わるかだと思っています。
なんとなくではありますが、優秀な教員は変えられると考えています。現在、優秀な教員で日の目を浴びていない人がごまんといます。そこの構造は変える事ができるのではないでしょうか。例えば、先日教育のノーベル賞とか言われる「グローバル・ティーチャー賞」というものを取った高橋一也という工学院大学付属高校の先生がいます。教育のノーベル賞に匹敵するものを取ったんです。実はもともとこの学校の先生で同僚だったんですけど、転職したんですね。
まあそれによって、教員の中では世界的な表彰をされたということで少し元気になったということが一つにあるんですが、私が言いたいのは高橋先生がどのくらいすごい人なのかという話でもなく、そういった素晴らしい教員が世の中にまだまだたくさんいるということなのです。
日の目が当たらないだけならまだしも、潰れかけて潰れかけて「まずいな、このままだと。」ってなっている優秀な教員がたくさんいるのです。みんなギリギリで耐えている状況なのです。
特に公立の、地方の教員にそういった人が多いです。そういう人に光をあてるような、社会的な評価を与えるような、表彰制度などを充実させる必要がある。
実のところ、自然発生的に、Facebookなどでそういったやり取りというものは、実際もう始まっている感覚はある。私自身、昨日もそんなやり取りをしていました。
そういう人たちはどんどん変わっていけると思います。
私がどんどん変わっていくと、当たり前のレベルを変えてくと、私のことを知っている他の学校の先生たちが変わっていきます。「児浦先生ができるなら俺も変えられる」といって変えていきます。そうするとまた、「そんなすごいことやったんだ。」って私も変える。そういう相乗効果みたいなもので、学校内だけでなく学校外も変えていく。そういう動きが今、あります。そこは恐らく変わるでしょう。突出して変わっていくと思います。現場からの取り組みで変わっていけるのです。
――現場からの取り組みが非常に重要ということですね。
児浦先生:そうですね。
――今回、フォーラムでお呼びするゲストの皆さんにも同様の質問を投げかけると、教員間での影響で変えていくのが一番良いやり方だとおっしゃっていました。
そういった現場での取り組みがフォーカスされる一方で、行政が改善すべき点というものにはあまり話がいかないような気がします。
児浦先生:行政ってやはり広くやらないといけないから、突出したところに対する政策ってこの国ではやりづらいじゃないですか。だからしょうがないじゃないですか。
ですので、その中でも頑張っている教員たちのコミュニティのサポートをしたりとか、そういうところに目を向けたりとかすればいいかなって、中教審の先生には会ったら言うようにしています。そしたら、「ああ、確かに」とは言ってくれるんですね。ただ、そういう人たちは皆さん忙しいから、「ああ」ってなっちゃってる。だからそのプレイヤーが少ないなとは思いますね。
優秀な教員を作っていくためには何が必要か
――先ほどから話に出てきている「優秀な教員」というところにフォーカスしていきたいと思います。児浦先生がおっしゃられている「優秀な教員が変えられる」ということに関して、「変えられる」という条件を満たす教員は、そもそもどういった養成過程の下で育っていくものなのでしょうか。私自身、教育学部に身を置く人間の一人として、昨今は教員になるためのハードルが様々な方面から下がってきていると感じています。そういった中で優秀な教員をいかに作るのかというのは重要な課題になっていると思います。
児浦先生:おっしゃる通りです。よく「教育業界が企業と比べて遅れている」であったりだとか、「教員の資質が低い」など世間では言われますが、一番の問題は、実は教育業界が企業と比べて一番遅れているのは人事制度なのです。激しく遅れています。恐ろしいほどに。ヒューマンリソースマネジメントという設計がない。私自身、社会人時代には人事の部署を担当したことはないが、それでも最低限企業に勤めていく上で必要なマネジメント能力というものがありました。そういった意味である程度のフレームワークというものを理解はしています。そういったフレームというものへの理解が、教育業界は著しく低いんです。
――力のある教員が力を発揮できるような仕事でないものをやっていると。
児浦先生:その捉え方自体が実は問題とも言えるんですね。広くあまねく、教員が事務職を下に見ていることが問題なのです。「教員は偉い、事務職は位が低い」みたいな構造が本当によくないのです。企業であれば、バリューを生み出すのは事務職ですよね。ところが教育業界では、その逆で人事が雑用になっている。
先ほども話に出たフレームワーク、例えば「採用」「育成」「配属」といったようなものが6種類くらいあるのですが、それらはどうするのかということを聞いたところで誰も答えることができないのが現実です。そうすると、教員に対するヒューマンリソースマネジメントは誰がやっているのかと聞きたくなるが、誰もデザインしてないのです。
――なるほど。学校、教育業界にとって今もっとも補強すべき点は「人事」つまりマネジメントができる人財なのですね。
最近ではチーム学校という話も取り沙汰にされますが、人事のプロフェッショナルを雇うということが必要なのでしょうか。
児浦先生:はい。しかもそれを文部科学省だけでなく、地域の教育委員会や私学の法人にもおいても、人事について相談できるような人を置くべきなのだと思っています。先ほど、広くあまねくとは言いましたが、そこまでの時間はないのが現状です。ですので、トップレベルの人たち。それらの人たちがどういう資質を持つべきかという指標を示すことが重要なのではないかと思います。
教育業界の弱いところは、点数化する評価に慣れすぎているために、教員自身への評価、すなわち数値化できない評価というものができないところにある。では企業は、というとルーブリックのようなものでちゃんと目標設定をして評価している。生徒に対する評価のシステムが遅れてるから、教員自身の評価に対するシステムが遅れているんです。何を評価するのということに誰も答えられないんです。
――確かに、教員は、一部の進学校を除いて実績によって自分の立場が脅かされるという、社会においては当たり前のことが少ない状況であるというイメージがありますね。
児浦先生:少ないですね。そこを指標化するなり、定性的な評価ができるように仕組みとして作らなければならない。そこがあまりにも遅れています。
新しい入試の評価軸はどこにあるのか
――点数化できない評価という話が今ありましたが、大学入試改革の話につなげたいと思います。改革で新たな評価基準として示されている「学力の三要素」は抽象的な部分があり、評価しづらいと思うのですが、児浦先生はどのように指導し、その能力を育んでいるのかということを評価されているのでしょうか。評価軸をはっきりさせるというのは今回の大学入試改革でも重要になってくると思います。
児浦先生:思考力・判断力・表現力というのは、生徒たちの、例えば長い文章や作った作品というようなパフォーマンスを評価する必要があります。
ですので、いかに評価基準、つまりルーブリックを作れるかが大切になってくるのです。「この問題を出しているのは何の力を問いたいからだっけ」という、先ほどのビジョンにつながってくるんですけども、そういったビジョンを持つためのきっかけというものがないとなかなかルーブリックを作ることは大変です。ただ、逆に言えばビジョンがあれば、ルーブリックは簡単に作れます。私自身はたくさん作っています。
――教員個々の理想の成長像があり、それに照らし合わせていく能力があれば、杞憂する問題ではないと。
児浦先生:ただ、ルーブリックについてはいろいろなサンプリングや敲き台があったほうが良く、それは確かに少ないです。いろいろな段階の生徒を評価できる、メタルーブリックのようなものから、切り取って評価していくのが本当は良いですね。今はそれを教員がなんとなくもっている状況です。使いこなせればいいのですが、その段階に至るのは確かに大変で、それがまず一個。
それから、主体性・多様性・協働性に関しては、確かに点数化は難しいかもしれません。何で評価するといえば、ルーブリック的なものも確かにあるのですが、それ以上に生徒の自己評価ではないでしょうか。それは点数化するというよりは、生徒の自己評価と教員の評価を合わせて、「こうだね」と言えるマップのようなルーブリックが必要だと考えます。
――生徒の自己評価を促すということは、つまり、教員にはファシリテーター的な役割が求められているとも言えそうですね。
固定概念的にある「教師は教える側、生徒は話を聞く側」というイメージ。教員の側が壊すことを嫌がるこのイメージを壊すことが重要になってくるのでしょうか。
児浦先生:私自身は生徒たちの発言を拾っていっていますが、確かに、下手だけど失敗を繰り返して成功していく子を、今のきれいな教育ではつぶしていってるなという気がしています。
――やはり最終的には、教員の個々での対応といったところに集約されるのですね。
児浦先生:そうですね。
試験を受ける前段階にいかに成長させるか
――また制度的な話に戻りますが、実際の試験の中で、そういった能力を評価していくためにはどうすればいいでしょうか。また現場の先生はどういった試験を理想としているのでしょうか。
児浦先生:試験に関しては、対策したもの勝ちということが一つ言えるんですよね。対策に特化すれば合格実績のようなものはどうにでもなります。
私はそうではなく、大学生活で圧倒的なスタートダッシュを切れる人を作りたいのです。実際、自分の授業実践の中でそういった人財を育ててきました。大海に出て失敗も含めて経験してほしいのです。
――つまり、試験は大学に入る関門と言えますが、問題なのはそこではなく、大学入試の場に立つその時までに何をしてきたということでしょうか。
児浦先生:そうですね。大学入試の試験勉強の頃に、強い心をもって向かえる子どもを作らなければならないでしょう。そのために大切なのが、やはりまずビジョンですよね。「大学でこういう生活をしたいからこうするんだ」という。そういう子どもが周りに良い影響を与えるんです。そういう状況にするためには、ビジョンを持った子どもにいろいろな経験をさせることです。高校二年生の秋くらいまでにそういった状態にさせて、勉強に関しては今までの経験よりも楽だと思わせるのです。
――入試制度で力を入れている部分よりも、社会全体として、もっと前の段階にフォーカスしなければならないということですね。
児浦先生:そうですね
――私自身、その時々の入試の形式にいかに考えて取り組んでいくかということは、入試改革が取り沙汰にされる中でも、実は一番大事なことなのではないかと感じています。
児浦先生:最後の一年間は「受験マニア」になるということは確かに大切だとは思いますね。
――ただ、世間の学校を見渡してみても、そういった「入試の前段階」に注力した取り組みということを重要視する風潮というものは主流はと言えるまでは育っていないように感じますね
児浦先生:そうですねえ。ただ、一般的には結果で勝たせるのが苦手な先生がやることだと思われるかもしれないですけど、逆に僕はそれを強みにしているんです。
――話を戻して。圧倒的なスタートダッシュを切れる大学生というのは、ある程度ビジョンがしっかりしている生徒なのだと思います。当然、それができない生徒もいると思います。実際の進路選択の場面においては、学部名などからの選択のみになりがちで、やりたいことというのは想像しづらかった記憶が私も実際にあります。
進路指導という視点では、児浦先生はどのように生徒にビジョンを持たせているのでしょうか。
児浦先生:生徒にはあまり言わないんですけれども、キャリアアンカーという考えがあります。
それは要するに、個人のキャリア選択における価値観のようなもので、それが意外と強いんです。
日本人の場合は目の前の問題を解決することが得意なタイプ、すなわち段階があったら一段一段をしっかり登っていくようなマネジメントをすることが得意な人が多いんですね。そういったタイプの人たちにビジョンを描けといったところでなかなか難しい。だから自分が描ける範囲でビジョンを描けばいいんです。
だから私は、描けないのであれば、汎用性があるところに行くことを勧める。就職活動の時にもいうが、職種と業種の掛け合わせだと思っています。
例えば、「教育の仕事がしたい」というレベル感の子がいて、「じゃあ具体的には何をしたいのか」と聞くと「それは決まっていない」と答えるような、そういった職種型のタイプの子どもが日本には多いように感じます。
先ほども言ったような、ビジョンがなかなか描けない人は職種型のタイプで、そういった子どもがいきなり何かの分野に絞ってしまうのはもったいない。だから僕は先に話したように汎用性があるところを勧めるんです。大学に行ってから絞れればいいし、「もしだめでも自分のスキルを磨け」と言いますね。
――私も多様な選択肢が取れる余地のある大学に進み、とりあえず保留というのは、先ほど述べたような、高校のうちに得られるキャリア観の狭さということからも賛成です。しかし、今は不確実な時代だからこそ「手に職をつけることが大事だ」といった反論もあると思います。
手に職をつけることは時期的な制約もあると思うが、そういったこととの兼ね合いは?
児浦先生:なるほど。それに対しては二つあると思っています。
ひとつは、不確実な時代だから職業も不確実ということですね。そこまで描けていない保護者が多いんです。職業の半分がこれからなくなると言われている中で、本当に「それでいいんですか?」と聞くと、その先が答えられない場合が多々ある。業種の先を、その業種についたとして、これからの社会にどうコミットしていくかというところまで描く必要があります。
もう一つは、人生をコントロールするのは親ではないということです。親が死んだあとに生きていくのは本人だから、本人が少しでも納得のいく職業に就くことが大切。本人の判断によると思いますね。
――つまり、子供たちの立場を保証することではなく、どういう場所にいても、その時の彼らにとって正しい選択を、彼ら自身でできる能力を担保することが大切と言えるでしょうか。
児浦先生:それはそうですね。人生は選択の連続だから。選択を間違えても、また変えればいいのだから、「とりあえず今の段階での選択を決めることは大事だね」ということはよく話します。
ビジョンを持った教員が変える力を持っている
今までの話を簡単にまとめさせていただければと思います。
まず二つの論点がありました。
一つ目に学力面でいう思考力・表現力・判断力という評価しにくい指標(点数化できない評価軸)が出てきて、それにどうやって教員たちが取り組んでいくかという話。
二つ目にキャリア面で、子どもたちにどのようにビジョンを描かせていくかという話。
両方の話に共通して、教員自身がビジョンをもっていくことが大切であり、またそのビジョンは教員自身が各々で形成していくしかないということ。
そしてそういったことは、優秀な教員であれば可能であり、そういった教員同士のお互いの影響によって学校の中だけでなく外も、つまり他の学校の教員も変えていける。
――総括すると、教員同士でコミュニティを作り、相互に教え影響しあっていく環境があれば、解決に向けて大きく動いていくと言えるでしょうか。
児浦先生:はい、そうですね。
さらに言うのであれば教員同士で教えあうというよりは、相談できる環境というのが大切ですね。
「エリート」達へのメッセージ
――最後に。今回のフォーラムは東大生をはじめとして多くの大学生や若者が来場すると思われます。今回のフォーラムのテーマは「大学入試改革」ではありますが、その狙いは改革の理念が掲げる「これからの時代に必要な能力」がいかなるものかを理解し、個々人の現状のあり方に危機感を持ってもらうことにあります。
児浦先生はまさにそうした、「これからの社会を担う人財」といった若者を社会に輩出されている立場として、今の若者達に何を伝えたいか。
素晴らしい能力はあるが、0から1を生み出す力が足りないと批判されるエリート層の若者はどうしていくべきか。
そんな若者達にアドバイスをいただきたいです。
児浦先生:皆さんは「エリート」をどう定義しているでしょうか。
日本は20世紀に成功した国です。エリートも、20世紀型のエリートに過ぎなません。皆さんにぜひとも伝えたいのは「21世型のエリートになってください」ということです。「21世紀型エリートとは何なのか考えてる?」ということですかね。
21世紀型エリートとしてどう生きていくか、みんなの中に解があると思います。
田舎の国として日本が独立を保っていたら、GDPが2位になった時代もありました。今後は、日本は「昔栄えていた国だよね」と言われるようになるかもしれない。私は、それは、これまでいくつもの苦難を乗り越え、血のにじむ努力をしてきた先代の人たちに申し訳ないと素直に思う。
そのためにも21世紀型エリートとして自分がどう生きていき、どう社会に貢献していくのかという問いをみなさんにぜひとも持っていただきたいと思います。
いかがでしたでしょうか。
今回、児浦先生への取材は「大学入試改革」というテーマの元で当初から組ませていただいていたのですが、取材をさせていただいた後には、そこにとどまらない「教員にとって本当に必要とされていることはなんなのか」ということが見えてきました。
それは、児浦先生の言葉をお借りするのであれば、取材中なんどもおっしゃられていた「ビジョンを持つこと」、このことに他ならないように思えます。
昨今は、今回我々のフォーラムでもテーマとしている「大学入試改革」をはじめ、現場に対して様々な改革の波が押し寄せてきています。しかし、ビジョンを持って、それに基づいた「理想とする人間像」や「評価軸」といったものがあれば、波に飲み込まれ、動きが取れなくなるということもなく、これからの時代を担う若者を作り出すことができる教員となれるのではないでしょうか。
そして、最後に頂いた、若者へのメッセージ。ここには、まさにこれから必要とされる能力である「答えのない問いに立ち向える力」を持った若者であれ、「考え続けろ」という先生の想いが込められている気がしました。
総括して、今回の記事は、現教員であられるみなさまにも、これから教育の道に進もうとしている若い人たちにもとても意味のあるものになったのではないかと思います。
取材させていただきました児浦先生、本当にありがとうございました。この場を持って改めて感謝申し上げます。
さて、「五月祭教育フォーラム2017」当日もこの記事に負けないような熱い議論が交わされます。
私たちと一緒に「大学入試改革」を、これからの日本の教育の未来を考えてみませんか?
5月21日 13:30〜 東京大学本郷キャンパスにて開催です。
お申し込みはこちらから!▷▶︎▷ https://goo.gl/buZ8lG
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